走り去った静雄の背を呆然と見送った正臣は、深く深くため息をついた。
「本っ当に知らなかったのか…」
てっきり、闇医者から話が行っていると思っていたのだ。そこらへんの裁量は情報を渡された少数の人間に任されていたから。
事実、正臣もこうやって挨拶をしながら、新宿の情報屋が死んだことを伝えている。
「沙樹も、物凄い演技だったな。静雄のこと知ってたのに」
「それはまぁ、知らない子って言う方がいいと思ったから。それに、会うのは初めてだから嘘はついてないと思うよ」
「まぁ、そうか」
おそらく、静雄が向かったのは新羅のところだろう。新羅もまた、臨也が死んだことを知っているはずの数少ない人間だ。
「…さて、門田さん達のところにも、挨拶に行くか」
「そうだね。『池袋の情報屋』さん」
「……からかうなよ。俺はまだ、あの人みたいに巧く立ち回れない」
新宿の情報屋からすべての情報と技術を受け継いだ少年は、少女と共に次の目的地に向かって歩き始めた。
この情報を池袋、そして新宿に広めることが、自分の最初の仕事だ。
********************
「ちょっと…どうしたのさ。静雄?」
一方、新羅はいきなり訪ねてきた静雄を玄関で出迎えていた。
怪我をしているようでもない友人は、珍しく息を切らしながらそこに立ち、何故か新羅を睨んでいる。
「今、お客さんが来てるんだ。治療じゃないなら…」
「何で、言わなかった」
「…え?」
「ノミ蟲が死んだって、何で俺に言わなかった!!」
その叫びに、新羅の動きが止まった。
何故知っているのかという顔に、真実なのだと静雄の脳は理解する。
「いつだ、あいつが死んだのは!?」
「ちょ、静雄…!い、痛い痛い痛い揺らさないで…!」
「いつだっつってんだよ!あの野「半月前です」…」
新羅の肩を掴んでぐらぐらと揺らしながら叫ぶ静雄の声を止めたのは、リビングの方から聞こえた至極冷静な声だった。声の方へ顔を向けると、一人の女性がそこに立っていた。
「西條女史…!すみません、お騒がせして」
「いいえ、岸谷先生。そこの男性が叫ばれていることで私はお尋ねしたのですから…」
「誰…だ?」
「関西のとある大学病院に勤めていらっしゃる医者でね。ちょっとした友人なんだ。彼女が……
臨也の、死亡診断書を、持ってきてくださった」
「っ!?」
その言葉に、今度は静雄の動きが止まった。
しぼうしんだんしょ。
…死亡、診断書?
「そ、れは……」
「遺体は損傷と腐敗の度合も強く、死後二週間以上は経過しているようでした。所持品と衣服、それと毛髪…歯の治療痕などから、その遺体が『折原臨也』であると断定したのです。岸谷先生には一応…お知らせしようと、今日は池袋に来たのですが」
その女性のよどみない言葉に、あぁ、本当なんだなと静雄は理解する。しかしその一方で、あの臨也が死んだという事実を、受け入れられない自分がいた。
「…静雄、これはね、その…本当なんだ。葬儀とかはしてないそうなんだけど、折原の家の方ではもう火葬もして墓に入れたって…それは、一週間前のことなんだけどさ」
一週間前。そういえば、最初に双子に臨也のことを尋ねたのは三週間ほど前だった。そして、ここ最近は姿を見かけていない。喪に服して、色々と忙しいとすれば、なるほど、姿など見えないのは当然だ。
「僕も、君にいつ伝えようか迷ってて…でも、君のことだから手放しで喜んだりしたら、臨也の妹達はかなり落ち込んでるんだ。もう少ししてから知らせようと…。言い訳だな。すまない」
「………いや」
「実は…セルティにもまだ伝えてはいないんだ。セルティは優しいから、例え臨也といえど、死んだら悲しむんじゃないかと思って…」
「そう、か………悪かったな。その、邪魔して」
「あ、帰るのかい?」
「…あぁ、頭…冷やすわ……」
そうだ。臨也が死んだなんて最も喜ぶべきことのはずなのに、何故、自分はこんな行動をとっている?まるで、悲しんでいるみたいじゃないか。死んだのが信じられないみたいじゃないか。
自分が真っ先に取るだろう行動とまったく一致しない今現在の行動に、ただ混乱しているだけだと、頭を冷やせば元に戻ると、静雄は結論付けた。
しかし、
「……えぇ、と、静雄、さん。でしたか」
「…あぁ」
ドアを閉めるところだった静雄を、西條という女医が呼びとめる。
「お幸せに。周りの人を大切にすることが、貴方の一番するべきことだと思います」
「……」
その言葉に何も返せずに、静雄はドアを閉める。
何故だろう、励まされたと取るべきなのに、皮肉を言われた気がした。憐れまれたような気がした。
「何だってんだ…!」
何より、何か大切なものを、失ったような気がした。
********************
「最後のあれ、静雄にはきつかったと思いますけど…莉真さん」
「あら、そう?臨也の十数年をまるごと独占したのだから、私からしてみればあれくらいの悪戯可愛いものだけれどね」
静雄が去った後、新羅は物凄い脱力感を覚えていた。誰に聞いたか知らないが、静雄が自分の家に来るとは予想外だったのだ。
「とりあえず、その死亡診断書はどう使おうとお任せします。私としましては、臨也がよく仕事をしていたという組の方々辺りにさりげなく情報を流していただけるとありがたいのですけれど」
「それはもちろん。そうしないと何が起きるか分からないからね。……臨也、は、」
「……『折原臨也』は、もういません。もう、その名で呼ばれても、あの喧嘩人形が『ノミ蟲』と叫ぼうと、反応はしないでしょう。その認識をすべて棄却することで、『折原臨也』の死亡は確認され、工作もすべて完璧に行われましたから」
認識を棄却。
それは、臨也が、『自分は折原臨也である』という認識を捨てたということだ。そんな意識の切り替えなんて、普通はできやしない。できるはずがない。しかし、新羅の目の前にいる人間を含め、何処にも特殊な人間は存在するものだった。
「しばらくは、東京にも来ないでしょう…あちらでの仕事に馴染まないといけませんしね」
「……元気で。と、伝えてください」
「気が向いたらお伝えします」
にっこりと笑う莉真と知り合ったのは、高校に入る直前のことだった。同じく医者を目指す人ということで意気投合したが、自分と彼女では明らかに違う点がある。それは、臨也への認識だった。
自分とは違い、莉真はどんな臨也でも愛していた。それは友愛であり親愛であって恋愛のそれとは違うものの
自分としては意外なほど、莉真は臨也を愛していた。そして、人を愛していると豪語する臨也も、その又逆もしかり。莉真に対しては、明らかに違っていた。
まぁ、あの嫌な性格自体が演技というか、たった一つの物事の為に形成されたと知った時は、別の意味で驚いたけれども。
「あの子も、落ち着いたら貴方に連絡するでしょう。あの子の中では、貴方はこの東京で数少ない、事情を知る人間の一人ですから。…それに、少なからず、友人という意識も持っているようです」
「…そう、ですか」
友人。
高校時代ならばともかく、自分は、臨也に友人らしいことなどしたことがあっただろうか。
ある。などとは、言えはしない。
「それでは…失礼します」
「えぇ…お元気で」
パタン。と、静雄が帰った時よりは静かに、だが重く響いてドアは閉まった。
静寂が支配する。セルティは今、仕事でいない。その時間を狙って莉真を招いて死亡診断書を受け取ったのだから当たり前だ。
そしてセルティがいないからこそ、新羅は目から滑り落ちる雫を止めようとはしなかった。
「もっと最初から知ってたら…僕は君を、反吐なんて呼ばなかったんだろうね」
そして、こんな終わり方をさせなかっただろう。
莉真は、臨也しか知らない。それゆえに、臨也の方にしか意識を向けないが、自分はこちらに残された池袋の人々を、これから先もずっと見て行かなければならない。
家族も、かつての同級生達も、来良の子達も、臨也の信者達も、臨也の行く先は死だと思っている。
それはある意味の事実で、しかし偽装された真実。
それを語ることは許されない。言うとしたら、自分が死ぬ時か、今はもう亡き『本人』が、それを許すかのどちらかだ。
「…どちらにしろしばらく、僕の胸の中というわけ、か」
なかなか嫌な嫌がらせをしてくれる。と、これから先会えるかどうかも分からないその人に、新羅は小さく称賛を送った。
********************
「いっやー、結構いいところだね!眺めもいいし、日当たり抜群!」
「ちょっと、病み上がりでうろちょろすると転ぶわよ」
「はーい。…あ、波江は五つ隣だっけ」
「えぇ、奇跡的に角部屋を買えたからね」
波江は、自分と同じマンションの同じ階、その自分とは反対側にある部屋に来ていた。
荷物は綺麗に運び込まれており、小さな雑貨だけが、部屋の主によって開かれるのを待って段ボールに収まっている。
「あ~、気持ちいい~…」
「はいはい。あぁ、莉真が今日、こっちに戻ってくるそうよ。それで、一緒に夕飯をどうかって」
「え、行く!」
「勿論でしょ。貴方の快気祝いも兼ねているんだから」
「やた。何時~?」
「夕飯だもの。6時くらいでしょ」
そう言うと、彼は時計を確認した後、段ボールを開いて物を置き始めた。
時間まで身体を動かすことにしたらしい。
「明後日からは仕事だけど…」
「そこは大丈夫!波江だって仕事あるんだろ?てか、同じ職場内だし」
「まぁ、そうね」
一週間も入院していたものだから、心配癖でもついただろうか。それとも、これの幼馴染達の過保護が写ったかと思うが、まぁ、今のところ嫌とは思っていないのでいいだろうと、波江は小さく笑う。
「さて…と。冷蔵庫の中が空っぽだし、何か買っておこうかしら」
一つの穴が開いて、
一滴の雨が落ちて、
何かが終わって、始まった。
PR